くろま流 × NEJIMAKI式 のべる

時代の旧新囚われないオリジナルノベルPRと、文字の力を信じて手当たり次第に述べる

多様性とは? 今注目されるべき課題

 先ごろ米グーグル社内で起きた、女性差別とも取られかねない問題で、提起した男性社員が解雇されたとニュースされました。

 紹介記事は、彼を取り巻くその後をリポートしているのですが、色んな企業でよくある社内痴話げんかの様相を呈しているようです。

 

グーグルの「反多様性メモ」に、社内からも支持の声──「企業における多様性」の難しさが浮き彫りに|WIRED.jp

wired.jp

 

 IT技術の先端企業で巻き起こった問題は、確かに今最も先端てきましたな社会問題である「多様性」の真相を突いたもののように見えました。 

しかし、そもそも多様性とは、今回のような男女の差はもちろん、貧富・年齢や価値観などの二元性や、相対的な視点から見て論じるような性質の問題ではなくて、それを論じようとする人の、スタンス(人生観)によって、同じテーマでも意見が変わってしまいます。

 

 多様性とは、まずは相手を無条件で受け入れると言う事ですから、大事なのは多様性自体関係なく、人それぞれの「許容量」に比例するということになりませんか?

 多様性を言い換えれば、様々な有りさまが存在する中で、人と人とのつながりも複雑になる中で、自分を受け入れてもらうために、どれだけ相手を受け入れられるかを、自分の度量相談すると言う事です。

 

 ですから、多様性を受け入れるためには自身の境遇や価値観にかかわらず、まずは食べず嫌いのような端から拒絶する意識を極力減らし、まずはニュートラルに受け入れてから判断できるかにかかっているでしょう。

 要は自分の外にあるのでなく、自分の内にあるリミッターがどこまで柔軟性があるかにかかっていて、かと言ってその柔軟性を高めるかどうかは周りに強要されるべきでなく、自分自身高めるべきです。

 

 多様性を考えるには、人と人との関わりにとってとても大事なテーマですが、ひとから強制されては本末転倒ですし、内面の純粋性が問われる「心の鏡」のようなテーマであるため、反面教師にならないよう心しておく必要があります。

 しかしながら多様性を語ることは、自分を受け入れてもらう上でも大切なものであり、多様性についてしっかりとした自分の考えを周りに打つ出す行為は、とても大事なものだと考えています。

 

アートで生計を目指すひとへのメモ

 

 アート、ここではイラストや音楽の才能を見出して、生計を建てようとしている諸氏が、最初に準備するだろう設備投資のヒント、について。

 

ドスパラの8型タブレットPC「raytrektab DG-08IWP」がAmazon.co.jpで販売開始 - ITmedia PC USER

www.itmedia.co.jp

 

 上の記事がオススメと言うと、そう言う話でなく、

Macがアーティストのステータスかどうか見直そう」

 

 つまり、自身の目標に見合った初期投資のススメ。

 

 今時アートでもPCやタブレットが必須なのは、当たり前ではあるけれど、

「本当に自身に必要な投資ができていないひと」

へのお話。

 

 アートも機材のスペック至上なのは、

クオリティを追求すれば当たり前ではある、

ただ、選択肢の増えたガジェット市場で、

記事に煽られ本来の価値観の迷走は見え隠れしている気もする。

 すでにそれなりの地位を業界で築いている方なら何も言わないけれど、

これから目指す人やスタートアップの人には、考えて欲しい。

 

個性が問われる業界だけに重要なのはテクニックやノウハウではなく、

 

「どの表現を目指すのか」

 

という根本的な目指す表現の方向性で、まず 

 

 紙と鉛筆や楽器で、

ジワジワリアルアートで資産価値を上げていくのか、

 

 デジタルアートで、

一気に知名度を上げてブランドで勝負するのか、

 

だけを見ても、

それによって設備投資は変わってくるし、

後者を選んだら、飽和市場なのでなおさら個性は大事。

 

 また、デジタルアートに関して言えることで言えば、

作品はあくまでデータでしか無いために、

 

「いかに表現力を磨くために集中できる設備投資ができるか?」

 

を重視しているかは大事なこと。

つまり、資金が無くても安い端末を準備してでも、

作品作りに没頭する時間を重視することの方が大事なこと。

 

 素材が充実する「Mac」になったとか、

手軽に数をこなせる「無名タブレット」にしたとか、

 

 それぞれに戦略に合わせて創作環境のコスパを選んでいればOK。

 

 そうでなく、最強こそ至上的な理由だけだったり、

 単にファッション性に偏った選択は、

 

「アーティストに大事な個性を、見えにくくする」

 

なんて本末転倒な話になりかねないし、

自身でも気づかないうちに、

自分の才能を見失うことになってたら、エライ事。

 

 創造者とは、人の気付かない可能性を広げる者。

 

 創造とは、

本来大衆の求めるモノからかけ離れたところに見出すもの、

とも言える。

 

 それだけに、

 

お金をかけたアートが価値のあるアート。

 

というアートの原点と隔たる考えは、

はじめから持ってほしくない。

 

作家のスタンス

 小説と言っても、様々なジャンルを意識した場合に、読み手は嗜好性によって自分の好みを嗅ぎ分けて、作家を定義する。
一方小説は千差万別ある中では、ジャンル分けすること自体に意味がないとも言える。

ただ、読み手の嗜好が前者であっても後者であっても、全く問題のない話であって、むしろそこは書き手にとっては選択の余地のない不可侵な部分なのかもしれない。

その分作家は読み手を意識するしないは別として、書くことだけに集中することで、質を上げ個性を磨いてその精度を上げてこそ、読み手に存在価値を示せると言える。

また、書き手の大事なスタンスは、一心に書きたいもの書くべきと確信する者に集中すべきであって、今時のように校正方法や出版に関する余計な知識や問題に振り回されるべきではない。

そもそも小説家とは元来貧乏であり、書くこと以外は無欲な職業であったが、職業である以上食べていけることが最低条件であり、それをクリアできていなければ、執筆から販売まで全て自製しなければ生きていけないということだ。

その本分とは食い違った作業は、今でこそインターネットの発達の恩恵に頼れば、従来の作業量と比べて格段に負担が少なくなっているものの、いかんせん楽に慣れていく人間は、楽になったらなったでもっと書くことだけに集中したくなるのが常である。

そのために散財しなければならない今時のジレンマは、当面作家を悩ませることだろう。

作家のスタンス

 小説と言っても、様々なジャンルを意識した場合に、読み手は嗜好性によって自分の好みを嗅ぎ分けて、作家を定義する。
一方小説は千差万別ある中では、ジャンル分けすること自体に意味がないとも言える。

ただ、読み手の嗜好が前者であっても後者であっても、全く問題のない話であって、むしろそこは書き手にとっては選択の余地のない不可侵な部分なのかもしれない。

その分作家は読み手を意識するしないは別として、書くことだけに集中することで、質を上げ個性を磨いてその精度を上げてこそ、読み手に存在価値を示せると言える。

また、書き手の大事なスタンスは、一心に書きたいもの書くべきと確信する者に集中すべきであって、今時のように校正方法や出版に関する余計な知識や問題に振り回されるべきではない。

そもそも小説家とは元来貧乏であり、書くこと以外は無欲な職業であったが、職業である以上食べていけることが最低条件であり、それをクリアできていなければ、執筆から販売まで全て自製しなければ生きていけないということだ。

その本分とは食い違った作業は、今でこそインターネットの発達の恩恵に頼れば、従来の作業量と比べて格段に負担が少なくなっているものの、いかんせん楽に慣れていく人間は、楽になったらなったでもっと書くことだけに集中したくなるのが常である。

そのために散財しなければならない今時のジレンマは、当面作家を悩ませることだろう。

小説:朝井リョウに関して

 地元東海地方である、岐阜県不破郡垂井町出身の若手の作家、朝井リョウ氏も今年28歳だという。

大学在学中に直木賞作家最年少記録をつくったのは、彼の作家アイデンティティの核を担っているものの、ネットが普及し素人総作家時代と、揶揄差れる変化の激しい業界において、かれはどこに活路を見出しているのだろうか。



 彼が、世代相応の等身大のネタを小説にしているので、有名になって久い中で人とは違った社会を観察する目線は、朝井小説の生命線であり、独自性と言えるかもしれない。

しかしそんな独自性を評価された彼ではあるが、その片鱗は中高という特殊な時代環境で、世代ならではの体験を中心に多くの経験からだと言う。

 

中高をランク付けされる大人社会に無い特殊な社会と感じていたらしく、目立つ人そうでない人から勝つ人負ける人までを、一括に矯正される縛られた世界だと見る彼の感性は、混沌としていた定まらない軸は、彼のお姉さんの「自分の表現をしろ」と言うアドバイスで一気にまとまったと語る。

 

彼はその時代での経験という引き出しを使って、同世代の抱える問題をテーマに、小説を書き小説家最年少デビューを果たし、社会派として認知される。

ただかれに言わせれば、その評価は本人とはかけ離れた、中高で味わった人を束ねる社会の縛りでしかないと感じていたらしい。

 

筆者の世代からして、中高での縛りと言う認識は、認めがたいが否定できないと言う、今更の後悔を指摘されたような、後ろめたさを感じずにはいられない。

たとえその指摘が的を射ていようがいまいが、素直に認めたくないのは、この世代が、戦後引き摺ってきた常識を肯定しながら、新しい考えを模索して答えを出せなかった世代だからであった。

 

私たちにとって大事なことは、朝井リョウ氏のような新鮮な視点に、素直に向き合える思考のゆとりと、それを原資にして今築いている社会的立場を活用して、可能性や多様性を広める役割を担うことかもしれない。


 多感な時期に、縛りからの脱却を夢見て道徳に縛られない私小説も書いていたと言う、彼の小説家としての器は、社会のもどかしさと闘いながら、また巧みにその空気を嗅ぎ取ってかわしながら、彼なりの独自性を探る姿こそ、社会が縛ろうとする小説そのものを開放する道を模索するものであり、共感の外を目指す実験小説をマイペースで繰り出す、朝井リョウ小説の存在価値を、今後も大いに成長させて欲しい。